20210111「自分の葬式でお坊さんが言ってたら嬉しいこと」

昨日はnoteに意気揚々と2021年について書いていた。

でも今日は、ちょっと暗いテイストで生涯について書いてみる。

希望が特に見えていない時は、こっちのブログの方に来てしまう。

これもまた、アイデンティティの統合失敗に寄与してるのかなあ。

 

最近、とても素敵な人と話す機会があった。

心が綺麗なピュアな人だったから、すぐに好きになったけど、

その分自分のことを嫌いになって帰ってきた。

 

これから社会人になることとか、もうすぐ大学生活という猶予期間を終えることとか、

そういうことを考えると、漠然と「今ここ」で何をしていいかわからなくなる。

 

行動し前進することを善と考える一方で、

そんなのは意味がないと言う呪われた自分がいる。それは嘘ではない。

 

ーーー

少し話が逸れるが、書きたいことを書く。

 

批判的な精神を培ってしまったお陰で、

「それは嘘だ」「そんなことは無意味だ」という思考に囚われてしまうことはよくある。

 

この批判的精神の起源を辿れば、

子供ながらに「法なんてクソだ!嘘付きだ!」と思った瞬間に行きつく。

かなり危険思想だ。だが本当にそう思った時があった。

こんなことをガキの頃から考えていたのは、自分の中の同性愛の素質に気が付き、

自分の性質が社会に合わないものであることに子供ながらに気付かされたからだ。

でも誰かしら、何かしらのタイミングで同じようなことを考えることはあるんじゃないかと思う。

 

「法や教科書が嘘をついているか、或いは自分が完全におかしい宇宙人であるか」

その二択を吟味する日々を送ってきた。中学生としては、間違いなく変な奴だ。

本を読んだり、学んでいくことによって、さらに色々考えた。

まだどちらの可能性もあると思っているし、一方でどちらの可能性もないと思った。

必要以上に考えたところで、幸せな結果は得られないのだと見切りをつけた。

 

何かを信じている人のことを、盲目的で思考していないと決めつける考えは嫌いだ。

 

何かを信じるのは、素敵だと思う。

その何かは、神とかでもいいし、何らかのイデオロギーとか、なんとか主義とか、

別になんだって構いやしない。素敵だと思う。

もちろん、その対象には危険性をはらむものもある。

だが信じるという行為においては、人間っぽさを感じずにはいられない。

いや、アスファルトの上を歩く蟻が何かを信じているとするならば、

それも素敵だなと思ってしまうから、人間っぽいというのは違うかもしれない。

蟻が大好きな女王蟻への愛を信じ、一喜一憂していたら可愛いなあ、って感じ。(?)

 

それが素敵だと思うのは、秩序だっているからかもしれない。

何も信じない混沌より、信じている何かのために秩序だっている方が美的だと感じる。

矛盾していることは、混沌ではない。

 

勿論状態に対してそう思っているだけで、危険な宗教などを擁護する訳ではない。

ただこの「美的だ」と思う感情も、現在の世界に数えきれないほど存在している宗教や思想の影響を大きく受けていると思う。

 

なんにせよ、自分の足元も見えない感じではあるが、こんな私自身でも信じているものがある。

経験則から成ったものだが、その経験にピュアなものなど無いに等しい。21年間考えたブラックボックスから出てきた、今ここで考えることだ。

 

「愛」という言葉にするのが良いのかと思う。(開祖になるつもりはないから真面目には聞かないでほしい!!!)

 

ここで愛というのは、恋人とか家族とか友達とか、そういった関係性に依存するものではない。「アイツが泣いてたら、俺の胸が痛い」というやつだ。その痛みを言い換えたものを、愛と定義する。(もう一度言うが、マジで真面目には聞かないでほしい)

 

この痛みから逃れるには、かつての誰かさんたちがそうしてきたように、解脱を目指すとか、神に祈るとか、もしくは自分たちで痛みの根源を撲滅するために頑張る必要がある。

 

 

この表裏一体の「愛」は、もしかしたらただの虚構で、我々の遺伝子プログラムから派生した末端の中の末端の、何の意味もないものなのかもしれない。

 

一方で、種の保存なんて、我々が「ただ愛する者のため、そして愛する者が愛する者のため、その愛する者が愛する者が愛する者のため………」と行動するよう仕向けてきた「愛という呪い」による、ただの手段でしかないのかもしれない。でもこの「種の保存なんて、そんな馬鹿な~~」と思いたくなってしまう感情は、別の何かを信じる多くの現代人に共通するものなのではないだろうか?

 

そしてまた手段や目的という概念も、本当に取るに足らないことだと思う。

 

でもまあ、今ここで「痛い」と感じるのは嫌だから、何とかこれを消し去るために、(いや、愛のために!!!)何とか手を打ちたいと考えるわけだよ。

 

ここで「手を打とう」「戦おう」的な考えが出てくるのも、マッチョでロマンチックな武士道って感じで、それもまた色々な色々の影響を受けているのでウケる。ほんとにそう思う。はーーー自由意思ってなんやねん。

 

愛のために生きるには、いくつか方法があると思う。

 

だが誰かのために自分の心が休まらず「痛い」と感じるからと言って、

その誰かを、間違っても殺したりしてはいけない。それは、絶対に痛いはずだ。

きっとめちゃくちゃ痛いはずだ。考えただけで痛い。うわーん!

じゃあ逆に、その誰かを泣かせるような存在を悪として殺す???まあそうやって歴史は動いてきたかもしれないね。でもそれは正しいことではなかったと、歴史は言っている。

 

(ここまで書いてきて、少し不安になってきた。

古代ギリシアの哲学者になったつもりは全くないが、友達いなくなりそうだな…)

 

なるべく、できるだけ、平和で人々に受け入れられやすいものを選ぶのが賢明だ。

なぜならそれが賢明だからだ!はあ。なんだか疲れてきた。

 

でもまあ、なんだかんだ結局、最終的に落ち着くのは、

「世界平和!」とか、「誰もが幸せを感じる世界!」とかそんなところ。

世界平和を願う人、みんな同志!はい!

 

少し前までこれはシンプルで簡単なことなんじゃないかと思っていた。子供だったのかもしれないし、今が批判的すぎるのかもしれない。

 

自分の好きな人と、その好きな人が好きな人のためになることをしていけば良いのではないでしょうか。(敵の敵は味方、という論理には触れないでおきます)

とりあえず、痛みは感じずにいられるではないでしょうか。とにかく、痛いのは嫌だ。

 

ちょっとこれ以上話を進めるのは

自分にとって危険な気がしてきたので、やめます。

 

でも、今までの自分の行動は、

こんな考えがぐつぐつ煮詰まった結果のことなんだと理解されたい。

 

ーーー

 

そんな感じの日々だから、

私という一個体が死ぬのも生きるのもそんなに大差ない気はするし、

死んだとしても、他人の満足のために自分の葬式が開かれることなんて

そんなのって最悪だと思ってしまう。

自分が死んだ時、周りの人に泣いてもらいたい派の人は多いと思うが、私にはあまりピンと来ない。

 

でも今日は、それはそれとして、

自分が死んだあと語られる物語が、どんなものであれば面白いかを考えている。

死後なので自分がそれを耳にすることはないから、

結局それもどうでもいいことなんだけど、暇潰しだと割り切って。

葬式じゃなくてもいいし、お坊さんじゃなくてもいい。

誰か私のことを知る人が、私のことを思い出すときに想起されたら、ちょっと楽しい。

さっきまでとは打って変わって、世俗的な話をする。

 

ーーー

 

「愛を与え、愛に与えられた人間でした」

 

そんな始まりがいいね!

 

「故人は、若い頃から当たり前に囚われることなく、

自分の意志に耳を傾け、進むべき道を決め、

着実に、しかし素晴らしいキャリアを積んでいきました。」

 

やっぱ最初はキャリア至上主義でいく。

 

「厳しく困難な状況をものともせず、

自分の責務を全うするために一生懸命、ひたむきに頑張りました。

楽観的ともいえる大胆さで、しかし着実さをもって仕事をこなし、

そんなこんなで若々しいモテモテ人間になりました。」

 

急に動物感出てくるな。でもモテたいよ。

 

「ある時故人は、とてもとても美しく聡明な人と出会いました。

生きたいと思わせてくれるような人でした。」

 

まーーーじで出会いてえ。会えると思ってるのはドラマの見過ぎ?

でも、パパとママは幸せそうだから、信じたくもなる。

 

「故人とその恋人は、二人のために、

そして二人の家族や周囲の愛のために働きました。」

 

「故人は同時に、人との良き縁を大切にしました。

決して多くはありませんでしたが、立派な友人に恵まれました。

彼らは故人を成長させてくれる、尊敬に値する人ばかりでした。」

 

そういえば、私の周りの人は尊敬できる人ばかりだな。

尊敬していない相手とは無意識的に縁を切ってしまっているのかもしれない…。

 

愛する人と、尊敬する友人のため、

故人は学びを止めませんでした。」

 

「故人は、そのキャリアに固執することはありませんでした。

元々の夢であった『世界のどっかに絶対なくならない学校を創ること』を

愛する人や友人と実現するため、人生の財産、知識を傾けました。」

 

これは鍵だな。成し遂げたいこと。

 

「自分の持ちうるものを捧げたあとは、海の近くに小さな家を買いました。

大切な学校は、信頼できる人に渡すことにしました。

そこで愛する人と、仲良く静かに暮らし、たまに顔を見せる孫と遊びました。」

 

愛する人が隣で年をとるのを目にしながら、

何も疑わず、何にも反抗せず、ただただアホみたいに幸せを感じました。

死が二人を分かつまで、まじでアホみたいに幸せを感じ続けました。」

 

「故人はいま、亡き人となりましたが、

生前はまじでアホみたいに幸せそうで、なんつーか、そんな感じでした。」

 

ーーー

ここまで書いて、まじでなんてアホな文章のために時間を費やしてしまったのかと後悔してきた。

 

暇をもてあましすぎている。

 

ごめんなさい。